
違和感を感じる「自分は普通ではないのでは」という不安。
最近、ふと思うことがあります。
「実は、自分は正常ではないのではないか」と感じることがあるのです。
なぜそんなことを思うのかというと、近所から不思議な唸り声が聞こえてくるのがきっかけです。
たぶん、私の家の裏、もしくは左裏の家の若い人からだと思います。
ちなみに犬や何かの動物の声ではありません。人間の声であり、私の勘違いではないと思います。
この唸り声は、6〜7年前から月に1〜2回ほどの頻度で断続的に聞こえてきています。
以前は「変わった人が近所にいるのだろう」と考えていましたが、最近になって、ふと「もしかして私自身もそう思われているのでは」と感じるようになったのです。
引きこもり歴と発達障害、そしてIQ
私は23年以上、引きこもりの生活を続けており、ASD(自閉スペクトラム症)の診断を受けています。
さらに、IQは67という結果も出ていて、日本の平均IQ100よりもかなり低い数値です。
それを踏まえると、「普通ではない(言動・行動をしている)」と見られても不思議ではないのかもしれない、と思ったのです。
ですが、私自身は理性を常に保っているつもりです。
誰かに迷惑をかけることは極力避け、いつも「自分よりも他人を優先する」という気持ちに縛られています。
感情が高ぶって声を荒らげたり、暴れたりするようなこともないですし、嫌なことがあってもそれを外に出すことなく、心の中に留めているタイプです。
普通と思っていた自分と、周囲の見え方のギャップ
私がASDと診断されるまでは、自分は「普通の人間」だと思い込んでいました。
学生時代を振り返ってみると、クラスにはよく目立つ“問題児”のような存在がいました。
叫んだり暴れたり、奇妙な行動をする人たちです。
私はそうではありませんでした。
むしろ、自分の思考は常に”無”に近く、人と関わることが極端に苦手なタイプでした。
ですが、周囲の人から見れば、その姿もまた“普通ではない”と映っていたのでしょう。
その結果、私はずっと避けられたり、いじめられたり、孤立してきたのだと思います。
これは、私が単に内向的だったり、コミュニケーション能力が低かったり、家が貧乏だったり、赤面症や家庭環境の酷さなど、様々な要因によるものだと考えていました。
しかし後になって分かったのは、それだけではなかったということです。
ASD特有の思考の癖、そしてIQの低さによる理解力や判断力のギャップが、知らず知らずのうちに“変な人”と見られていた要因の一つだったのだと感じました。
自分ではそれに気づいていなかった。
診断を受けるまでは、本当にずっと自分を「普通」だと思って生きていました。
でも違った。
だから怖いのです。
そもそも、普通と異常の判断区別が私はついているのだろうか。
普通を演じているはずが、異常だったかもしれない可能性。
そもそも普通って何だろう。
その基準がASDだからズレている可能性がある。
それも怖い。
正常と異常の境界が分からなくなるとき
最近また近所から唸り声が聞こえてきたとき、強い不安に襲われました。
もしかしたら、自分は「唸っている近所の人と同じように異常なのかもしれない」
そう思ってしまったのです。
私は今でも理性を保ち、社会に迷惑をかけないようにと心掛けています。
大声で叫んだり、突発的な行動をしたりすることもありません。
ですが、それは“自分の中での普通”であって、本当の意味で「他人から見てどう映っているか」までは分かりません。
実際、物音を立てず、部屋を暗くして存在を隠しています。
これが私が近所の人に対する気遣いのつもりですが、相手から見たら不気味すぎる、と思われているのかもしれない。
また、家族(母親)と会話をせず、他人との関係も希薄なまま何年も暮らしていると、自分の行動や言動が客観的に見てどうなのかを判断する術がなくなってきます。
私自身は自分を「静かに生きているだけ」と思っていますが、周囲の人からは「変わっている」「怖い」と思われているかもしれません。
これが本当に恐ろしい。
自己理解の難しさと、ASDによる想像力の壁
ASDの特性の一つに、“相手の気持ちや視点を想像することの難しさ”があります。
私自身も、その影響を大きく受けていると感じています。
自分がどのように見られているか。
何が常識的な反応で、何が違和感を持たれる行動なのか。
それを正確に想像する力が弱いため、自分で自分を客観視するのがとても苦手です。
だから、私はいつも「普通にしているつもり」でいても、それが他人にとっては“異常”に映る可能性があるのではないかという不安が消えません。
私の頭の中は常に空虚感があり、無意識に“普通っぽく見える”ように行動を模倣しているような感覚があります。
主体性が無さすぎて、自我が無いと思っています。
例えるなら、私が私自身をゲームのコントローラーで操作している感じです。
自分の事なのに、他人事。
頑張って正常を操作して演じているだけ。
本当の意味で自分がどう在りたいか、自分がどんな存在なのかも、時々わからなくなるのです。
誰か教えてほしい。
私はただ、自分がどう見られているのかを知りたい。
「自分は異常なのか? それとも、ただの個性なのか?」
その境界を自分で判断できないことが、何よりも怖いのです。
まとめ:自分がどう見られているか分からない恐怖と向き合って
今回、近所から聞こえてきた唸り声をきっかけに、自分自身の存在に対する不安が再び湧き上がってきました。
「もしかして、自分も周囲から“異常”だと思われているのではないか」という疑念。
これは、ASDや知的ハンディキャップを抱える私にとって、決して一時的な思いつきではなく、ずっと心の中にある根深い問題です。
私の中では“ただ静かに生きているだけ”の毎日でも、他人からはどう見えているのか、自分では分からない。
理性を保ち、誰にも迷惑をかけないように心掛けているつもりでも、それが普通とは限らないのです。
過去に自分が普通だと思っていたことが、発達障害と診断されたことにより、裏切られたトラウマがあるからです。
また、人と長く関わらずに生きていると、自己認識と社会的評価とのズレがどんどん大きくなっていくのを感じます。
「自分が思う自分」と「他人が見る自分」。
その間にあるギャップが、私にとって最も恐ろしいものであり、解消のしようがない壁のように感じられます。
でも、“普通”という言葉には明確な正解があるわけではないと思います。
社会の多数派の価値観であったり、地域や文化で変わるあいまいな基準だったりもします。
私はまだ、自分がどう見られているのか分かりません。
でも、たとえ普通でなかったとしても、それが“異常”というわけではなく、「ただの違い」であると信じたい。
誰かにとっての変わっているが、誰かにとっての個性かもしれない。
その可能性を心に留めながら、私は今日も、自分を少しでも理解しようとしながら、静かに生き延びています。